2006年 09月 13日
鶴崎踊り |
2006年8月20日
大分県のぶんご游草会は国選無形民俗文化財、本場鶴崎踊り大会に初めて参加しました。
約20名が自作の藍染め絞りの浴衣を着て優雅に「左衛門」「猿丸太夫」を踊り、数千人の見物客を魅了しました。嬉しいことに鶴崎踊り実行委員会長特別賞に輝きました。
鶴崎踊りは歴史があり、今からおよそ500年前にさかのぼります。
時の豊後(大分県)の国主大友宗麟のために、京から白拍子を招き踊らせたことにより始まりました。
♪♪ 来ませ見せましょ鶴崎踊り 何れ劣らぬ花ばかり
豊後名物その名も高い 踊る乙女の品のよさ ♪♪
鶴崎は大分市の東部に位置し、大分川と大野川の沖積地一帯で昔の高田荘内にあります。 豊後絞りの発祥地 門田村や萩原木綿の産地萩原村、牧村も高田荘の中にありました。豊後絞りとも縁のある地方です。
この地で豊後絞りの浴衣を着て踊りに参加できたことは豊後絞りを40年以上に亘り研究してきた安藤宏子にとって感慨深いものがありました。
豊後絞り
豊後絞り(別名三浦絞り)について記してみましょう。
全国に先駆けた木綿の絞り染め、豊後絞りは江戸時代を通じて豊後の特産品として名を馳せていたことが、数多くの古文書や浮世絵などに記されています。
しかし、私が調査を始めた1962年頃の大分県ではすっかり豊後絞りの名前も忘れ去られていましたが、近頃少しずつ大分の人の知るところとなってきました。
鎌倉時代、高田荘(鶴崎)には相模国から三浦一族の三浦介が地頭として着任していたことが大友文書に見られます。
三浦氏は関東、三浦半島の出自であり、同じ関東出身(小田原)の大友氏とほぼ同時代に鎌倉から豊後に下向していたと思われます。
三浦氏が高田荘を鎌倉時代から室町時代まで約200年に亘って治めていました。
この時に多くの三浦氏縁の者を豊後に迎えたようで、それが現在の鶴崎地方や大分市一帯、県内に三浦姓の多い要因となっています。
大分市鶴崎(高田荘)は江戸時代に熊本,延岡、臼杵,竹田など各藩の飛地があり、九州の海の東玄関として栄え,参勤交代や上方へ出かけるための港町、宿場町として人々の往来が多くありました。
大分市に「府内」の街が作られるまで、高田荘が豊後での物流の中心地であり最も豊かな土地でありました。
また、江戸初期以前から高田荘で綿の栽培が行われており、三浦氏が地頭の高田荘の木綿が三浦氏に因んで三浦木綿として室町時代から大正時代まで呼び継がれて来ました。
「三浦木綿が徳川家康に送られた」
この三浦木綿は1952年肥前名護屋在陣中に徳川家康に送られたことが「徳川家康文書研究」に記されています。
三浦木綿が銘柄として特定されていることから希少価値のあった産物であったようです。
1600年前後の時代、庶民の日常着として木綿の普及が始まった時であっただけにこの三浦木綿に括られ藍染めにされた絞りは非常に目新しく九州の海の東玄関、鶴崎港より「三浦絞り」「豊後絞り」の名で全国に広まりました。
(1638年の全国の産物誌「毛吹草」に豊後の産物として絞り木綿が初見されています。1803年の「豊後国誌」には絞り木綿の産地を「高田郷門田村」と地域が特定されています。)
「三浦絞り」「豊後絞り」は名古屋城築城の頃に尾張の有松・鳴海に伝わって「有松絞り・鳴海絞り」として発展します。
時代は下がり秋田の浅舞絞りや九州筑前絞りなどの木綿の絞り産地が生まれました。
私は大分市出身で現在、神奈川県藤沢に住んでいます。三浦氏のふるさと三浦半島は目の前です。
名古屋市で35年間暮らし、有松・鳴海絞の里で「豊後絞り」の名称を知って、大分との関係を調べながら、絞りの道に深入りをしてしまいました。
そして「豊後絞り」と「三浦絞り」の謎解きがようやく終了して、気が付いたときには、三浦氏の縁の地いたことに不思議なご縁を感じます。
2006年9月12日安藤宏子
大分県のぶんご游草会は国選無形民俗文化財、本場鶴崎踊り大会に初めて参加しました。
約20名が自作の藍染め絞りの浴衣を着て優雅に「左衛門」「猿丸太夫」を踊り、数千人の見物客を魅了しました。嬉しいことに鶴崎踊り実行委員会長特別賞に輝きました。
鶴崎踊りは歴史があり、今からおよそ500年前にさかのぼります。
時の豊後(大分県)の国主大友宗麟のために、京から白拍子を招き踊らせたことにより始まりました。
♪♪ 来ませ見せましょ鶴崎踊り 何れ劣らぬ花ばかり
豊後名物その名も高い 踊る乙女の品のよさ ♪♪
鶴崎は大分市の東部に位置し、大分川と大野川の沖積地一帯で昔の高田荘内にあります。 豊後絞りの発祥地 門田村や萩原木綿の産地萩原村、牧村も高田荘の中にありました。豊後絞りとも縁のある地方です。
この地で豊後絞りの浴衣を着て踊りに参加できたことは豊後絞りを40年以上に亘り研究してきた安藤宏子にとって感慨深いものがありました。
豊後絞り
豊後絞り(別名三浦絞り)について記してみましょう。
全国に先駆けた木綿の絞り染め、豊後絞りは江戸時代を通じて豊後の特産品として名を馳せていたことが、数多くの古文書や浮世絵などに記されています。
しかし、私が調査を始めた1962年頃の大分県ではすっかり豊後絞りの名前も忘れ去られていましたが、近頃少しずつ大分の人の知るところとなってきました。
鎌倉時代、高田荘(鶴崎)には相模国から三浦一族の三浦介が地頭として着任していたことが大友文書に見られます。
三浦氏は関東、三浦半島の出自であり、同じ関東出身(小田原)の大友氏とほぼ同時代に鎌倉から豊後に下向していたと思われます。
三浦氏が高田荘を鎌倉時代から室町時代まで約200年に亘って治めていました。
この時に多くの三浦氏縁の者を豊後に迎えたようで、それが現在の鶴崎地方や大分市一帯、県内に三浦姓の多い要因となっています。
大分市鶴崎(高田荘)は江戸時代に熊本,延岡、臼杵,竹田など各藩の飛地があり、九州の海の東玄関として栄え,参勤交代や上方へ出かけるための港町、宿場町として人々の往来が多くありました。
大分市に「府内」の街が作られるまで、高田荘が豊後での物流の中心地であり最も豊かな土地でありました。
また、江戸初期以前から高田荘で綿の栽培が行われており、三浦氏が地頭の高田荘の木綿が三浦氏に因んで三浦木綿として室町時代から大正時代まで呼び継がれて来ました。
「三浦木綿が徳川家康に送られた」
この三浦木綿は1952年肥前名護屋在陣中に徳川家康に送られたことが「徳川家康文書研究」に記されています。
三浦木綿が銘柄として特定されていることから希少価値のあった産物であったようです。
1600年前後の時代、庶民の日常着として木綿の普及が始まった時であっただけにこの三浦木綿に括られ藍染めにされた絞りは非常に目新しく九州の海の東玄関、鶴崎港より「三浦絞り」「豊後絞り」の名で全国に広まりました。
(1638年の全国の産物誌「毛吹草」に豊後の産物として絞り木綿が初見されています。1803年の「豊後国誌」には絞り木綿の産地を「高田郷門田村」と地域が特定されています。)
「三浦絞り」「豊後絞り」は名古屋城築城の頃に尾張の有松・鳴海に伝わって「有松絞り・鳴海絞り」として発展します。
時代は下がり秋田の浅舞絞りや九州筑前絞りなどの木綿の絞り産地が生まれました。
私は大分市出身で現在、神奈川県藤沢に住んでいます。三浦氏のふるさと三浦半島は目の前です。
名古屋市で35年間暮らし、有松・鳴海絞の里で「豊後絞り」の名称を知って、大分との関係を調べながら、絞りの道に深入りをしてしまいました。
そして「豊後絞り」と「三浦絞り」の謎解きがようやく終了して、気が付いたときには、三浦氏の縁の地いたことに不思議なご縁を感じます。
2006年9月12日安藤宏子
by yusoan
| 2006-09-13 16:52